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仏教は2500年を超える歴史と世界的な広がりを持つ大きな宗教です。その全体像を一言で表すことは難しいですが、仏教を理解する鍵は「仏」という視点にあります。本動画では、①仏に成る教え(成仏教)、②仏が説いた教え(仏説教)、③仏とは何かを説いた教え(説仏教)の三つの切り口から、仏教の概要をわかりやすくご案内します。
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「仕事が落ち着いたら」 「もう少し余裕ができたら」 「いつか時間ができたら」 私たちは、大切なことを未来へ先送りにしてしまうことがあります。 けれど、その「いつか」を待っている今日も、かけがえのない私の人生です。 仏教が説く「諸行無常」とは、すべてのものが移り変わり、同じままではいられないということ。 今回は、浄土真宗の七高僧のお一人、曇鸞大師が長生の教えを求め、やがて阿弥陀さまの浄土の教えに出遇われたエピソードをご紹介します。 健康になってからでなければ、大切なことに向き合えないのでしょうか。 十分な時間や余裕がなければ、人生を大切に生きられないのでしょうか。 病気のある今日も、思うようにいかない今日も、私のいのち。 未来への準備をしている時間も、すでに私たちの人生の一部です。 今の自分を置き去りにせず、限りあるいのちを生きるということ。 そんなことを、仏教の教えとともに考えてみたいと思います。 どうぞ、ひとときお付き合いください。
こんにちは。「ほっとする仏教のおはなし、法話の樹」です。 仏教の話を聞いていて、「なるほど、いい話だな」と思うことがあります。けれど、話が終わったら、それまでどおりの生活に戻る。今日の自分とどうつながるのかは、よく分からない。そんなことはありませんか。 遠い昔に生きていた人の話。お寺の中だけの話。何かを深く信じている人たちの話。仏教を、そんなふうに少し離れたところへ置いて聞くこともあると思います。 今日は、仏教の話を「今ここにいる私の話」として聞く、ということを考えてみます。そのきっかけになったのは、イスラム教徒の方々との出会いでした。 私は、営業の仕事を辞め、僧侶として仏教の勉強を始めた頃、ある言葉に心を引かれました。 「いま、ここ、わたし」。 短い言葉ですが、私には、とても大事な言葉に思えました。どこかの誰かのことを説明しているだけではなく、今ここにいる、この私に関わる教えなのだ。それが仏教なのだ、と受け取ったのです。 ところが、勉強をしていると、また分かったつもりになることがあります。言葉の意味を覚えたり、本の説明を読んだりすると、少し安心するんですね。でも、その言葉を口にできることと、自分の暮らしの中で聞くことは、同じではないのだと思います。 そんな私が、改めて考えさせられた出会いがありました。 二〇一八年の七月です。広島では豪雨があり、その後、猛暑が続いた夏でした。その頃、タイから来られた三人と、東京にお住まいのバングラデシュの方二人を、ボランティアにお連れしたり、平和公園をご一緒したり、空港までお送りしたりする機会がありました。 ご一緒する中で、私は、皆さんのお祈りの時間に接しました。 あるとき、広島市内にある、マンションの一室のお祈りの場所へ伺いました。そこには、人が次々に集まってきます。一人ずつ、水で足や手首、顔を洗い、口をすすぐ。それまで着ていた、汗でぬれたTシャツから、きれいなシャツへ着替えて、お祈りをされました。 私に印象的だったのは、その時間を、皆さんが楽しみにしているように見えたことです。 決まりだから、仕方なくやっている。そんなふうには、私には見えませんでした。神さまに会える、神さまと通じ合える。その時間を喜んでおられるように感じたのです。 その中で、こんな言葉を聞かせてもらいました。 「神さまと私は、一対一です。直接通じています」。 ワン・オン・ワン、という言葉で話してくださいました。一人と一人で、向き合うということですね。 [少し間を置く] 私は、はっとしました。 皆さんにとって、そのお祈りは、宗教について何かを知る時間である前に、自分が神さまと向き合う時間なのだ。この方々の喜びは、そこにあるのかもしれない。私は、そのように感じました。 これは、イスラム教全体を説明するお話ではありません。私が出会った方々の言葉と姿から、私自身が教えられたことです。 そして私は、自分の方へ問いを戻してみました。 私は、お念仏を申すとき、どんなふうに向き合っているだろう。お経を読むとき、何をしているつもりだろう。言葉を間違えずに読めるか、うまく声が出るか。そちらばかり気にしていることもあります。 もちろん、丁寧に読むことは大切です。でも、読めた、読めなかったということだけで、お勤めの時間が終わってしまうのは、もったいないのかもしれません。 阿弥陀さまの願いは、今ここにいる私に届いている。そのことを聞く時間でもあるのですね。 私は、「お真向きさま」という言葉を教えていただいたことがあります。如来さまが、この私に真向かいにいてくださる、という味わいの言葉です。 遠くから、まとめて人間を眺めているのではなく、この私を目当てとしていてくださる。「すべての人を救う」という大きな願いの中に、この私も含まれている。私は、そう聞かせていただきます。 ここでいう一対一は、私だけを特別扱いしてもらうという意味ではありません。私にも、隣にいる人にも、それぞれの人に、願いが向けられているということです。 大勢でお経を読むこともあれば、一人でお仏壇に手を合わせることもあります。どちらであっても、そこにいる私の声として、お念仏を申している。借り物の声ではなく、今日のこの私の声です。 その私は、いつも落ち着いているわけではありません。腹の立つことがあった日もあります。気がかりなことがあって、集中できない日もあります。人に見せたくない思いを抱えたまま、手を合わせることもあるでしょう。 そんなものを全部片づけてからでないと、仏さまに向き合えないのだとしたら、私はなかなか向き合えません。 阿弥陀さまの願いを聞くというのは、そういう私が、そういう私のままで、見捨てられていないことを聞かせてもらうことなのだと思います。 お念仏を申したから、特別な声が聞こえたり、不思議な感覚が起きたりしなければならない、ということでもありません。何も感じない日にも、今日の私に届いている願いとして、南無阿弥陀仏と聞かせていただくのです。 仏教のお話を聞くときにも、同じことが言えるのかもしれません。 例えば、人と比べて苦しむお弟子の話を聞いたら、「昔の人も大変だったんだな」で終えることもできます。でも、「私は今、誰と比べているんだろう」と、自分の方へ向けて聞いてみると、少し違うところが開けます。 難しい言葉が分からなくても、自分の経験と重なるところが、一つあるかもしれません。逆に、言葉は全部分かっていても、自分には関係のないこととして聞いていることもあります。 「いま、ここ、わたし」。 仏教の話が、自分の方へ戻ってくるために、私はこの言葉を思い出します。自分を厳しく採点するためではありません。今、自分は何を抱えていて、その私に何が呼びかけられているのかを聞くためです。 今日この番組を聴いておられる場所は、お寺でないかもしれません。家事の途中かもしれませんし、移動中かもしれません。その場所にいる、今日のあなたの暮らしに、一つ重なる言葉があったらうれしく思います。 イスラム教徒の方々とご一緒したあの夏、私は、自分の宗教を自分の話として聞くことを、改めて教えていただきました。 南無阿弥陀仏。今日のこの私にも、阿弥陀さまの願いが届いています。 お聴きくださって、ありがとうございました。
お釈迦様には、ラーフラという一人息子がいました。 ラーフラが生まれて間もなく、悟りを求めて故郷を離れたシッダールタ太子。そして長い年月を経て、仏となった父と、その息子が再会します。 母ヤショーダラーに「父から財産を譲ってもらいなさい」と言われたラーフラ。しかし、お釈迦様が息子に譲ろうとしたのは、金銀財宝ではありませんでした。 ラーフラの出家、そしてそのことを知った祖父シュッドーダナ王の悲しみから生まれた、教団の一つの決まり。 今回は、お釈迦様とその家族をめぐる物語をご紹介します。
Why do we get angry, even when we don't want to? In this 5-Minute Dharma Talk, we look at anger from the perspectives of Buddhism and grief support. In Buddhism, anger is called shin'ni (瞋恚) and is considered one of the three poisons. In grief support, anger can also be understood as an emotion that may arise when we feel we have lost something important. So, instead of simply trying to get rid of our anger, what if we asked ourselves: “What was I trying to protect just now?” Perhaps our anger can help us notice something precious within us. Take five minutes to pause, reflect, and explore what may lie beneath your anger. なぜ私たちは、「怒りたくない」と思っていても、怒ってしまうのでしょうか。 今回の**「5-Minute Dharma Talk(5分法話)」**では、「怒り」を仏教とグリーフケア、二つの視点から見つめます。 仏教では「怒り」を「瞋恚(しんに)」といい、三毒の一つとして説かれます。一方、グリーフケアの視点から見ると、怒りの奥には、「自分にとって大切な何かを失った」という感覚が隠れていることがあります。 だから、怒りをただ消そうとするのではなく、こんなふうに自分に問いかけてみる。 「私は今、何を守ろうとしていたんだろう?」 怒りを見つめることは、自分が本当に大切にしているものに気づくことなのかもしれません。 5分間、少し立ち止まって、怒りの奥にあるものを一緒に見つめてみませんか。 日本語
裕福な家に生まれながら、欲望に満ちた生活を離れたいと願った青年ピッパリは、同じ思いを持つ女性バッダーと結婚します。しかし二人は夫婦となってからも清らかな生活を守り続け、やがてともに家を捨て、出家の道を歩み始めました。 お釈迦さまと出遇った摩訶迦葉尊者は、ぼろきれを衣として身にまとい、衣食住への執着を離れる「頭陀行」を生涯貫いたことから、「頭陀第一」と称えられます。 なぜ彼は、そこまで厳しい生き方を選んだのでしょうか。 妻バッダーとの物語、そしてお釈迦さまとの深い信頼関係を通して、摩訶迦葉尊者の生涯をたどります。